神田伯山(松之丞)のプロフィールと経歴は?
2012年、二ツ目に昇進。
2015年10月、浅草演芸ホールで行われた「読売杯争奪 激突!二ツ目バトル」で優勝。
2016年、新宿末廣亭の推薦で、真打への昇進が落語芸術協会の理事会の議題に挙がったが、否決となる。
2017年、平成28年度花形演芸大賞銀賞受賞。二ツ目でありながら独演会で定員数百人の会場を満員にするなど新進気鋭の講談師として注目を集める。
2018年、第35回浅草芸能大賞新人賞受賞。12月に行われた落語芸術協会の理事会において、2020年2月11日に真打に昇進することが承認されました。
落語芸術協会の香盤(落語家内部の序列を表すもの)においては落語家を9人追い抜いての抜擢昇進となりますが、落語芸術協会は落語と講談の香盤は別物と判断。
落語芸術協会では長らく会長であった桂歌丸が抜擢真打に否定的な考えを持っていて、その意志に従い講談師としては順番を守る形での昇進となった。
落語芸術協会での真打抜擢昇進は春風亭昇太以来27年ぶりとなります。
2019年、平成30年度花形演芸大賞金賞受賞。
歴代神田伯山はどんな人?
神田伯山は5代目の死後長らく空き名跡となり、神田松之丞さんが6代目神田伯山を襲名するまで40年以上後継者が現れませんでした。
歴代の神田伯山はどんな人だったのかをまとめてみました!
初代・神田伯山
本名:斎藤 定吉(さいとう さだきち) 生年不詳 ~ 1873年10月4日
大岡政談、宮本武蔵、大坂軍記などを読み普段は常に帯刀し高座の刀架けに脇差をのせてから話し始めたそうです。刀は靖国神社遊就館に献納されている。
明治に入り引退しましたが盗賊に暗殺され不慮の死を遂げています。
2代目神田伯山
本名:玉川 金次郎(たまがわ きんじろう) 1843年9月 ~1921年4月27日
15歳で初代神田伯山に入門し伯勇、小伯山を経て、1870年28歳のときに2代目神田伯山を襲名。
名跡を譲り、隠居名「神田松鯉」に改名しました。(初代神田松鯉)
2代目神田松鯉は実子になります。
3代目神田伯山
本名:岸田 福松(きしだ ふくまつ) 明治5年7月20日(1872年8月23日) ~ 昭和7年(1932年)
1883年2代目神田伯山に入門し神田松山と名のり、1895年神田小伯山と改名し真打に昇進します。
1904年に師から名前を生前贈与され3代目神田伯山を襲名。
3代目神田伯山が出演する寄席は大入りの満員で、反対に周辺(八丁)の寄席は客を取られてしまうので「八丁荒し」という異名を取るほどの人気があった講談師です。
最大の売り物とした「清水次郎長伝」はストーリーそのものを変え、愛されるキャラクターの次郎長像を作り出し独自の型として完成させています。
4代目神田伯山
本名:岡田 秀章(おかだ ひであき)
4代目は当初、5代目神田伯山の岡田 秀章氏があえて飛ばして襲名しました。
のちに自らが4代目神田伯山を自称しています。
5代目神田伯山
本名:岡田 秀章(おかだ ひであき) 1898年4月28日 ~1976年11月4日
1918年2代目桃川若燕に入門し桃川若秀と名のり、その後3代目小金井芦州門下へ移り小金井桜洲となり、更に3代目神田伯山門下へ移り、神田五山と名のります。
1932年3代目神田伯山と死別し、5代目神田伯龍門下に移りましたが1949年に伯龍とも死別します。
神田伯龍のお通夜にどてら姿で現れ、驚いた山田春雄から「他の人でさえ通夜には紋付(の正装)で来るのに弟子のお前がどてら姿で通夜に参列とは何事か」と怒られ神田派から離脱。
1949年に3代目桃川如燕を襲名しかつての弟弟子3代目桃川若燕と絶縁し、再び神田五山を名乗りました。
1957年に神田伯山を襲名し「5代目神田伯山」を自称。
「4代目神田伯山」は神田派宗家2代目神田松鯉に敬意を表しわざと空位にしたものの、2代目神田松鯉から契約不履行を主張され仲違いしています。
その後、4代目を空けた事実を取り消し自ら4代目神田伯山を名乗っています。
業界きっての変人として知られていたそうです。
6代目神田伯山
本名:古舘 克彦(ふるたち かつひこ)
そして、神田松之丞さんが真打昇進に伴い2020年2月11日に6代目神田伯山を44年ぶりに襲名しました。
神田伯山(松之丞)のプロフィールと経歴、歴代神田伯山のまとめ
神田松之丞改め、神田伯山のプロフィールや経歴でした。
歴代の神田伯山もかなり独特な人が多かったようですね。
真打に昇進した神田伯山がどのように講談界を盛り上げていくのか、これからがとても楽しみですね。
関連記事:講談と落語の違いとは?講談の階級も解説!
コメント